金木犀の香りが、ふんわりと漂っている。今年も金木犀の花が咲く季節になった。
私の住むマンションのそばには大きな金木犀の木があり、甘い独特の香りが人の出入りと共にエントランスを抜け、エレベーターに流れ込み、私の住む階まで運ばれてくる。
3年前までは、うつ病の症状が重く、金木犀の香りに気付く余裕すら無かった。一昨年、家の周りを歩いていたら、とてもよい香りがして、近くに金木犀が咲いていることに気付いた。去年も香りには気付いたけれど、金木犀がどこに咲いているのかは、分からなかった。
今年は体調もずいぶん回復し、金木犀の香りを楽しみに待った。いよいよ香ってきたので、今年こそ金木犀がどこに咲いているのか見つけよう、と思っていた。
そんな矢先、夫と夜道を歩いていたら、夫が私に言った。
「どこに金木犀があるのか分かったよ」
「本当? どこ?」
夫に付いて行くと、私達の住むマンションから20メートルほどの曲がり角に、他の木々に紛れるようにして、金木犀が小さな花をたくさん付けて咲いていた。
「えー、こんなに近くにあったのかー」
「うん、家に流れてくるのは、この木の香りだね」
「金木犀ってね、もっと薮っぽい、小さい木のイメージだったよ。こんなに大きい木なんだね」
私は感心し、大きく息を吸い込んで、金木犀の香りを楽しんだ。
……と同時に、病気になる前から同じマンションに住んでいるのに、なぜ私は金木犀の香りに気づかなかったのか、不思議に思った。
こんなにいい香りがするのに、なんで私は知らなかったんだろう――。
そこから想像は飛躍し、私は先月、田舎に里帰りした時に見た、古い長老の木のことを思い出した。
私は山奥の田舎で育ち、野山を駆け回って暮らしていた。真っ黒に日焼けして、チビですばしこく、崖もよじ登れたし、木登りも上手な山猿のような子どもだった。今はふくよかでゆるやかなおばちゃんだが、そんな時代もあったのだ。
木登りする中でも、特にお気に入りの木があって、実家の裏山にある、古い大きなケヤキの木が、当時の私のホームポジションだった。
大人でもひと抱え以上の幅があるので、小さい子どもが登るのは結構骨が折れる。でも頑張ってしがみつきながら登っていくと、太い枝が放射状に広がっていて、さらに太い枝に沿って進んでいくと、いい按配で腰掛けられる場所があり、町を見降ろすことが出来る。
先月、里帰りした際、なんとなく裏山を散歩してみたら、ケヤキの木はますます堂々として見えた。おまけにしめ縄が括られている。ご神木だったのだ。
思い出してみると、当時もそのしめ縄に足を掛けて登っていたので、罰当たりなこと、この上ない。
あの頃の私が見ていた風景を、もう一度見てみたいような気もしたけど、今の体重では枝が折れるかもしれないし、ご神木だし、止めておいた。代わりにあの頃見ていた風景を思い起こした。
あの頃は、山のてっぺんの木の上から小さな町を見降ろし、その向こうに広がる世界や未来をいつも夢見ていた。世界は今より果てしなく広く思えたし、未来も晴れ晴れといろんな方向に伸びていた。
私は木の上でぼんやり、いろんなことを空想して、とても満足して生きていた。
その頃の私は、草花や木、自然についてとても詳しかった。それらすべてが遊び道具だったからだ。
茎を折るとネバネバする汁が出る草や、友達の背中に投げるとくっつく草も知っていた。触るとかぶれる木も分かっていたし、かじると甘い味がする葉っぱも分かっていた。削るとピカピカになる石も見分けられたし、サラサラの砂が取れる場所も知っていた。
幼馴染の友達に、
「なんでまこちゃんは、そんなに自然に詳しいの?」
と聞かれて、
「私、忍者になりたいから。野草に詳しくて、自然に馴染めるようじゃないと忍者になれないから」
と、真顔で本気で答えるような、そんな子どもだったのだ。
夢見る子どもだった私は、大人になり、忍者にはならず広告プランナーになった。企画の仕事は想像力を駆使しなければならない。空想癖のある子どもは、天職に出会えた、と思った。
仕事はとても楽しかったし、充実していた。でも、仕事が軌道に乗るに連れ、忙しさや慌ただしさは増していき、私は子どもの頃に知っていたことをどんどん忘れていった。
日々の中でささやかなことを大発見するよりも、効率重視。びっくりするようなワクワクよりも、やりがいのある仕事が大事。
私は、ちゃんとした大人になった代わりに、子ども時代に持っていた素敵なものを、知らないうちに手放してしまっていたのだ。
私がうつ病になったのは、東日本大地震に遭遇したことによる、生きる意味の喪失が一番大きな原因だと思っているけど、
(↓私がうつ病になったキッカケの日)
それよりも前から、私は忙しさにかまけて、生きていく上で大事なものを、どんどんすり減らしていたのだ。
病気になる前、キャリアも順調に積み上げてガンガン働き、華やかな場所で過ごす私を、子どもの頃の私が見たら、どう思っただろう。こんな大人になりたいと思っただろうか。
家を飾るための高価な切り花を抱えて歩いていても、素敵な金木犀が20メートル先に咲いているのに、そんなことも分からないような、そんな大人になりたいなんて、絶対思わなかったはずだ。
私、どこかで、何か、大事なものを忘れてきた――。
私はそう思って、なんだか泣きたい気持ちになった。でも、今年夫が見つけてくれた金木犀の木のおかげで、私はなんとなく、大事なことに気がついたように思う。
――子どもの頃、持ってたのに無くしたものを、これからひとつずつ取り戻して行こう。知識じゃなく、心を。
大丈夫、私は何度でもやり直せる。
もしまた私が、今感じたようなことを忘れても、毎年咲く金木犀の香りが、きっと思い出させてくれるから、私は大丈夫。
そう考える私の周りを、金木犀の香りが、ただふわふわと流れていく。
大丈夫、大丈夫。
間違えても、やり直せばいい。
何度でも。
何度でも。