弟の正義と私の真実。言葉は鋭いトゲとなり、4年間、刺さったままだった。でも、相手をゆるすことは自分のために必要。

「なんでも病気のせいにすれば許されると思ってんの? あんたはな、病気なんかじゃない。ただの怠け者なんだよ!」

ーー4年前、弟から言われた言葉。

それは、つい半年ほど前まで私の心に突き刺さり、その傷は癒えることがなく、いつまでも強烈な痛みを持って私を苦しめていた。何度も思い出しては、その都度、心の傷口から血が溢れ出した。私はただ苦しむ以外にどうすることも出来なかった。

私のうつ病の症状が一番ひどかった4年前の秋。私は脳の認知機能が落ちて、気分は常に最悪だった。思考力は激減し、簡単な足し算すら出来ない。人の話もスムーズに理解できない。身の回りのことも手助けしてもらってやっと出来るかどうか、といった有様だった。

私はなるべく人目を避けて暮らし、ただ横になることしか出来ず、常に恐怖と不安に苛まれていた。死はいつも身近にあり、世界は暗黒で、出口が見えないどころか、出口があるのかすら分からなかった。ただひたすら暗闇で震えて、やっとの思いで生きていた。

そんな中、離れて1人で暮らしている母が手術を受けることになり、電話がかかってきた。手術の前日から2週間ちょっとの入院をしなくてはならない、と言う。

今では、母は私の病気の理解者であり、心からのサポートをしてくれるが、4年前の母は、私がうつ病であるという事実を、断固拒絶していた。
(母との衝突の話はコチラ↓)

今日は、うつ病を家族に理解してもらえない苦しみについて、また家族がうつ病になってしまった時の苦しみについて、私と母の話を書こうと思う。 ...

母から、入院中の身の回りの世話と、手術に立ち会うように、と指示があった。私は病気で付き添える自信がない。そう母に言うと母は、とんでもない、といった様子で怒った。

「私は2週間も入院するんだよ! まこが付き添ってくれないと、どうするのよ⁉︎」

ーー2週間も、って言うけど、私は2年もうつ病に苦しんでるのをスルーしといて、そんなこと言うの?

私はそう思ったが言わなかった。代わりに、せめて手術の日は、弟に来てもらってはどうか、と母に伝えた。私の体調では、確実に立ち会える自信がない。それに手術前日から、母の兄弟、母方の親戚も集まるという。そんな気を使わねばならない環境で、人にたくさん合わなくてはいけない状況で、この最悪の体調の私に付き添いが務まるわけがない。弟に来てもらおう、と私は言った。

しかし母はますます怒った。

「あの子は来れるわけないじゃない! 日本にいないんだし、それに、まこと違って忙しいんだよ!」

弟は、東京でサラリーマンをしている。出張も多く、確かに忙しい。そしてこの当時は海外赴任中だった。

でも私は、好きで働いてないんじゃない。病気でやむを得なく、仕事を休まざるを得ないだけなのに。比べられても困る。

母の言い方に傷ついたが、それでも、私が付き添うことは確定、という前提で話を進める母に押し切られ、私は手術前日から数日間、母の病院に詰めることになった。

そのことを夜になって帰ってきた夫に話すと、夫はとても驚いた。

「毎日ギリギリで生きてるのに、泊りがけの付き添いだとか、親戚に会うとか、そんなの無理だよ。

お母さんのことは大切だけど、もしまこが別の病気で2年も闘病してたとしたら、そんなこと言うかな。絶対無理だよ。親戚の叔父さん達に助けてもらおうよ」

夫は心配したけれど、母は、弟や親戚に、私が付き添うことを連絡していた。もう、どうしようもなかった。

その日の夜、海外にいる弟から国際電話があった。

「姉ちゃん、母さんのこと頼むよ。近ごろの姉ちゃんは全然アテにならないからな。心配なんだよな。でも、ま、頼むわ」

そんなに心配なら、当日くらい来てよ、と頼んだが、

「無理に決まってんだろ。姉ちゃん、仕事も何にもしてないんだから、こういう時くらい役に立てよ。

それともなに、あれ? ウツがー、ってやつ?

そうやって自分に都合の悪い時だけ、病気のフリすんなよ。ただ面倒なだけだろ?」

口が達者な弟に、認知機能が落ちた頭では、とても切り返せない。私はこれ以上、遠慮のない言葉に傷つけられることを恐れ、そそくさと電話を切った。

そして手術前日がやってきた。母の病院の近くにある叔母の家に、親戚一同が集まって、昼過ぎに病院に行くことになっていたが、私は家から動けなかった。

足が震え、恐怖で頭が混乱し、涙が止まらない。行きたくないのではなく、もう、どうにも身体が言うことを聞かない。外に出るのが怖い。私、行けない。動けない。

私は必死で叔母に電話をかけた。その頃の私には、電話をかけるという行為すら恐ろしかったのだが、他に方法がない。

私は震える手で何度もやり直して電話をかけ、どもりながら、体調が悪くて病院に行けないことを伝えた。私の病気のことを何も知らない叔母は、不審そうにしていたが、それじゃ、私達だけで行くわね、と言い、私は泣きながら謝った。

電話を切った後、罪悪感と、病状から来る不安と恐怖に押しつぶされて、私はガクガク震えていた。母のことも心配で仕方がない。何もかも恐ろしくて、怖かった。身体が痺れて、時間も分からなくなり、私はじっと部屋の隅にうずくまっていた。

どれくらい経ったか、パチン、と部屋の電気が付き、夜になっていたことに気付いた。夫が帰ってきたのだ。

「何してるの? まこ! どうしたの?」

暗闇の中でうずくまって泣いている私の様子を見て、驚いた夫が事情を聞いてきた。今日病院に行けなかったことを泣きながら伝えると、夫は言った。

「そんなにお母さんが心配なら、今から病院行こう。それで、お母さんと親戚のみんなに、今のまこは病気だからって、付き添いは無理だって、僕からみんなに話す。これ以上無理すると、本当にまこが壊れるよ。行こう」

私と夫は病院に行き、母に面会した。母は昼間私が来なかったことをひどく怒っていて、夫が私の状態を説明しても、あまり口を利かなかった。帰り際、ひとこと、

「いくらなんでも、明日は来なさいよ」

と言った。私達は早々に病院を後にして、親戚の集まる叔母の家に行き、夫がみんなに事情を説明してくれた。

私が今、重症のうつ病であること、病状がひどく、入院も進められていること。だから、とても付き添えるような状態ではないということ。迷惑をかけてしまうけど、母の入院のサポートを頼みたいこと。

夫の話を聞いた、一番年長の叔父さんが、うつ病に理解があり、

「そうか、まこちゃん、うつ病やったんか。それは大変やなぁ。叔父さんらがお母さんのことはちゃんと見るから、安心しとき」

と言ってくれた。母の付き添いや世話は、親戚のみんなが交代でしてくれることになった。

そして翌日、手術当日になった。

頼みはしたものの、私は母が心配でならなかった。行かずに罪悪感に押しつぶされるよりは、やっぱり行こう、と決め、私は重い体を引きずり、マスクをしてサングラスをして帽子をかぶり、人目を避けるようにしながら家を出た。恐怖に怯えて電車に乗り、病院に向かった。

今日病院に行けさえすれば、母を見守れるなら、自分の体は、もうどうなってもいい。なんなら、帰りに電車に飛び込んでもいい、と半ばヤケクソのような気持ちで移動した。1人で出かけるなんて、長い間していない。足はガクガク震え、心臓が口から飛び出しそうだった。

病院には手術の予定時間より早く着き、母と少し話をすることが出来た。母は初めての手術を前に、とても緊張しているようだった。

「大丈夫だよ、お母さん。私、ちゃんと待ってるから、がんばって」

手術室に向かう母を見送り、病室で母を待った。数時間後、母は手術を終え、病室に戻ってきた。主治医の先生が言った。

「手術は無事終わりました。経過も良好ですね。全身麻酔が効いていますから、あと2〜3時間で目が覚めると思います。でもまだ、薬が効いてますから意識がハッキリするまでには、もう少し時間がかかると思いますが」

数時間後、母は目を覚ました。母は、まだ覚醒しきっていない状態で、

「まこ、どこ? まこ?」

と言う。私は母の手を握り、

「私はここにいるよ、お母さん」

「あぁ、そう。そばにいてよ……」

と言いながら、母はまた眠りについた。そこで私はようやく気がついた。母は怖かったのだ。不器用だから、うまく言えなかったけれど、私に付き添っていてほしかったのだ。

無理して来てよかった、今夜は私が付き添おう、と思った。叔母達に、今夜は私、がんばれそうだから、付き添います、と言うと、心配そうにしていたが、何かあったらすぐに連絡するように言い残し、帰っていった。

夫に泊り込むことを連絡すると、心配していたが、

「まぁ、まこが大丈夫って言うなら、なにかあっても病院だから、まだいいか。でも絶対、無理したらダメだよ」

と言ってくれた。

ーーしかし、後から考えると、この判断は、致命的な大間違いだったことになる。

私が1人で母のベッドの横に座っていると、母は再び目を覚ました。そして私に気が付くと、突然、烈火のごとく怒り出した。

「まこ! 今頃、のこのこ来て、何の用? なんで、ちゃんと付いててくれなかったのよ! まこは本当に役立たずだね!」

私は驚いて言った。

「えっ、私、付き添ってたよ。今日は朝から病院にいるじゃん、手術の前にも話したじゃん」

この時母は、まだ術後の痛みを抑えるモルヒネが投与されており、意識が混乱していたのだ。でも、それを知らない私は、一生懸命、母の記憶違いを正そうと試みた。

しかし、母は、

「まこなんか、どこにもいなかったよ! あんたみたいな、役立たずのウソつきは出てって!」

そして弟の名前を呼び、

「あぁ、ほんと、あの子の言う通りだった。まこが仮病を使って、私の面倒を見たくないって言ってる、って。姉ちゃんが言う、うつ病なんて信じたらダメだって。やっぱり無理言っても、あの子に来てもらうんだった。

あの子も私も、あんたの仮病騒ぎには、ほんっと迷惑してるの。ほんっと、うんざり。私の心配よりも、面倒なことがイヤなんだね。

この、ウソつき! 出てって!」

母はすごい剣幕で叫んだ。私は母のとなりに簡易ベッドを用意してもらっていたが、母はナースコールで看護婦さんを呼びつけ、ベッドの撤去と、私を追い出すように言った。

大人になってから、あんなふうに母に怒鳴られたことはなかった。それもひどい誤解だし、言いがかりだ。

普通の精神でもけっこう傷つく内容なのに、この頃の私は、豆腐より脆いメンタルだったので、心はぐしゃぐしゃに踏み潰され、再起不能なほど打ちのめされた。

看護婦さんは母の剣幕を、まぁまぁ、となだめながら、私を連れ出した。看護婦さんは、あまりのことに呆然とする私に、

「薬のせいで混乱する患者さんもいますから、あんまり気にしないでね」

と声をかけ、控え室のような、小さな個室にベッドを用意してくれた。

私はその日の朝からの出来事を、ぐったりしながら思い出し、スプリングのきしむ簡易ベッドに横になった。身体がガクガク震えていた。苦しいけど、寂しいけど、夫に事情を説明しても、心配させるだけだ。私は夫に電話をかけ、普通におやすみだけをやりとりして電話を切った。

私は横たわったまま、手に取ったiPhoneを胸に降ろし、混乱する頭で考えた。

ーーそうか、お母さんが、私がうつ病になったことを受け入れてくれないのは、弟の口添えがあったからなのかぁ……。私、こんなに苦しいけど、やっぱり仮病なのかなぁ……。

すると、胸のiPhoneがブルブル震え出した。着信は弟からだった。

「あっ、お母さんの手術、上手く行ったよ」

「知ってるよ。今、母さんから電話があった」

「はっ? お母さんから?」

「それより姉ちゃん、今どこにいるんだよ、付き添いもしないで、何やってんだよ!」

「わ、私は病院にいるけど……」

「ウソついてんじゃねぇぞ。母さんが、昨日も今日も姉ちゃんは来てないって言ったんだよ。俺に頼めばよかった、って。あんた、何やってんの?」

「お母さん、ま、まだ薬で混乱してるんだよ。ほ、本当に私、朝から病院にいるんだって。体調悪かったけど、今日はがんばって……」

「はぁ? がんばったなんて、どの口が言うんだよ。被害者ヅラするんじゃねぇぞ。

なんでも病気のせいにすれば許されると思ってんの? あんたはな、病気なんかじゃない。ただの怠け者なんだよ!

病気なんかじゃねぇ、ただの甘え。

あーー、まーー、えーーー」

「!」

「それとさ、俺、今日、親戚の叔父さんや、叔母さんに、母さんのこと頼みますって電話したんだけど、あんた何で、親戚中に、うつ病です〜なんて、勝手にカミングアウトしてくれちゃってんの?

自分がやってること、分かってんの?

同じ家系に精神病患者がいるってなったら、うちの娘達にも迷惑かかるの、責任取れんの?」

「でも、わ、私がうつ病なのは、ほ、本当だし、それに遺伝とか関係な」

「あーあー、もう、いいわ。最ッ低だな、一生、病気ごっこ、やっとけよ」

ブツッ。

弟からの電話は切れた。

突き刺さる言葉、

むき出しの敵意。

そして、完全な無理解。

初めて来た病院の、冷たい簡易ベッドの上で、横になって天井を見上げて、私は声すら上げれず、泣いていた。うねった模様のタイルパネルの天井で、青白く光る無機質な蛍光灯を見つめて、私は泣いていた。

どうすることも、言い返すことすら出来ない悲しみと怒りは、どこにもやり場がなくて、私は一晩中、蛍光灯の灯りが、窓から差し囲む日差しにぼやけてくるまで、泣き続けた。

翌朝、私は看護婦さんから、母にはモルヒネが投与されていること、だから、しばらくはあの調子が続くかもしれない、と聞いた。親戚の叔父さんや叔母さんも午前中には来てくれていた。

母の病室に顔を出すと、相変わらず怒っている。そしてまた、

「今さら来て、いったい何の用? 昨日まこが来なかったせいで、叔母さんや叔父さんに迷惑がかかったんだから! あやまって!」

と、私に言った。私はもう、体が崩れるような、体中から力が抜ける思いで、病室から廊下に出た。これ以上は今の私には無理だ、と思った。叔父さんや叔母さんに、今夜までは病院にいるけど、後はよろしくお願いします、と頭を下げた。

もう電車に乗る気力はなく、夫が仕事が終わってから迎えに来てくれることになった。私は母の病室にも入らず、人が行き交う待合いのロビーで、私だけ時間が止まったように何時間も動かず、途方にくれて夫を待った。

迎えに来てくれた夫と並んで、駐車場を歩きながら、私に起きた出来事を話した。

夫に経緯を話しているうちに、入り混じる想いを抑えきれず、胸がいっぱいになり、それまで無理やり繋いでいた心の糸が切れた。無理して自分を維持していたところに、やっと味方に会えた安心感から、私は壊れた。

ーーあれ、夜空が見える。星もいっぱい。

そこで私の記憶は途切れている。後で夫に聞いたら、私は突然、仰向けに倒れ、震え、錯乱し、絶叫していたと言う。

ただでさえ、うつ病の具合が良くないところに、突発的に起きる不測の事態に、心がオーバーヒートを起こしてしまったのだ。

気がつくと母のいる病院の救急治療室にいて、私はストレッチャーの上で横になっていた。両手首はバンドのようなものでストレッチャーの手すりに止められ、右腕からは点滴の管が伸びている。夫が心配そうに傍らの椅子に座っていた。

自分がどこにいるか把握すると、私は一刻も早く、この場所から逃げ出したいと思った。点滴の管を引きちぎってでも逃げたかった。救急担当の精神科医の先生と話す夫を急かし、私は病院を後にした。

2週間後、母は無事退院した。その時の私は、母の入院前より病状が悪化し、自宅で寝たきりになっていた。

それから4年間、紆余曲折ありながらも、私は少しずつ少しずつ、時間をかけて回復してきた。母との関係は、一旦はこじれたけど修復し、また理解し合えるようになった。

ーーが、弟とは、あれ以来、一度も直接話していない。

あれから数年経っても、度々、弟の言葉を思い出し、胸がえぐられるように痛んだ。弟の言葉、言い方、全部が鋭いトゲとなって、心の中から、なかなか抜けなかった。苦しくて、悲しくて、せつなくて、やるせなくて、怒りが込み上げた。

その感情は数年経っても色褪せず、昨日のことのように生々しく蘇った。心の傷は癒えるどころか、当時と変わらず、激しい痛みを私に与えた。

それが、変化を見せてきたのは、あれから4年が過ぎた、去年の秋の終わりのことだった。いつものように、弟の言葉を思い出して、苦しみ傷つく私に、夫が言った。

「でもさ、言われたこっちは、何年も苦しんでるけど、言ったほうは、意外とそんなにたいしたことじゃないと思ってるんだよ。それなのに、まこばっかりこんなに苦しむのは、損じゃないの?」

そして、

「あと、兄弟だから、絶対仲よくしないとダメなんてルールはないんだよ。大事なものが違えば、仲よくできないかもしれないし」

と言った。

この2つのセリフは、弟問題で苦しむたびに、夫が繰り返し言い聞かせてくれていたのだが、それまでは聞いているようで聞けていなかった。でも理由は今でも分からないが、その日は夫の言葉が、私の心の中にすんなり入ってきたのだ。

もしかすると私の中で弟問題は、限界だったのかもしれない。言葉を反芻して苦しむメーターが振り切れたのかもしれない。

ーー確かに、言われっぱなしな上に、さらに思い出しダメージで傷つき続けて行くなんて、割に合わない。

それに、夫の言う通り、仲よくなくても、何にも問題ない。しょっちゅう顔を合わせないといけないわけじゃないんだし。

どんなことを言われようと、私には私の真実がある。今の私なら、あの時言われた言葉に対して、自信を持って否定することができる。

ーーもう、投げつけられたひどい言葉を思い出して、自分を傷つけるのを止めよう。

もう、私、弟をゆるそう。私のために。

私はそう思った。ゆるす、とは、許しを請われたから、ゆるす、のではない。

ゆるすとは、投げやりではなく、目をそらすのではなく、事実は受け止めて、それでも、もういいや、と思えることが、ゆるす、ということなのだ、と私はその時初めて知った。

自分のために、自分の中で、ゆるす、のだ。相手は関係ない。怒りや悲しみをゆるすことで、自分自身が苦しみから解放されるのだ。

そう思った去年の秋から、季節は冬に変わり、年が明けると、私はもう、あんなに悩まされていた弟問題が、ほとんど気にならなくなっていた。

そう、やっと私は、弟をゆるせたのだ。

弟問題の苦しみを聞いてくれていた、友人の横水さんに、

「私、もう、弟をゆるしたよ」

と話した。横水さんは、

「それはよかった、よかった。まこちゃんのために、それがよかった」

と言った。

そう横水さんに宣言したことで、私の心に刺さっていたトゲも、全部、抜けてしまったようだ。今はもう、弟のことを思い出しても、まったく平気になっている。あれほど何年も苦しんだ痛みを、今はまったく感じない。こうやってこの記事を書いていても、憎たらしいなとは思うけど、心に傷を負ったりはしない。

確かに、考え方や、大切なものが変わってきた時、たとえ兄弟でも、違う道を歩くのは当然のことなのかもしれない。あの時、弟は言った。

「うちの娘達にも迷惑かかるの、責任取れんの?」

ーー私には私の真実がある。でも、弟には弟の正義があるのだろう。十人十色の、人には人それぞれの考え方がある。考え方によって物事はさまざまに変わるし、正義も真実も変わる。

弟は弟で、好きなように考えればいい。私は私で、自分の心に素直に生きていくだけだ。

今年のお正月、弟からの年賀状が届いた。

あんなことを言いながら、弟はあれからも、毎年欠かさず年賀状を送ってくる。去年までは宛名の文字さえ見るのも苦しくて、中身も見ずに片付けていた。今年は年賀状を裏返し、家族揃って笑顔で写る、親の顔をした弟の顔を見た。

元気でやってるなら、それでいいな、と思った自分にふと気づき、あぁ私、もう完全に吹っ切れたんだな、と、そう思った。