うつ病患者の私と、うつ病患者の親になった母。歩み寄りに必要だったのは時間でした。

今日は、うつ病を家族に理解してもらえない苦しみについて、また家族がうつ病になってしまった時の苦しみについて、私と母の話を書こうと思う。

その前に、母と私には、どのようなベースがあったかを少々。

私の父は、私が小学生の頃に突然死した。まだ30代前半だった母は、私と弟を抱え、いきなりシングルマザーになった。母は、父亡き後こそショックを受けていたが、本来から負けん気が強く、頑張り屋の性格だったので、「2人の子どもをキッチリ育て上げる」と言うミッションを掲げ、子育てのため休職していた仕事に復帰した。

母は「母子家庭だから、仕方がないよね」と言われることを物凄く嫌がった。私達姉弟は、がんばる母のおかげで、何不自由なく暮らせたし、塾や習い事にも行けた。旅行や季節のイベントは盛大に行われたし、愛情もたくさん注いでもらった。

その代わり母は、私達姉弟にも、人並み以上の成績と、品行方正さを要求した。また、私達の将来のため、という理由から、とても厳しい躾を受けた。それは大人になってから役立つこともあったが、母の頑張りの結果=私達姉弟、という構図になってしまっていたことは否めない。

私達が何か粗相をすると、そのこと自体が、母の失態であると母が受け取ってしまうので、それはそれで窮屈な部分もあった。

それでも、母はがんばり続け、私達は姉弟とも、義務教育以上の教育を受けさせてもらい、それぞれ社会人になった。

私は自分で仕事を始め、会社を起こし、そこそこ上手くやっていた。弟は外資系の会社のサラリーマンになった。2人とも家庭を持ち、孫も出来、まぁまぁだが、無事に育て上げました、と母は思っていたと思う。

母は今、仕事も引退し、私の家から車で2時間くらいの距離にある実家に、1人で住んでいる。

ーと、ここまでが前提。

私は40才になり、うつ病を発症した。

「娘は、親にこまめに連絡をするべきもの」という母の決めたルールに則り、病前の私は、1週間に一度ほど連絡をしていたのが、うつ病になり、電話が出来なくなった。何しろ自分の身の回りのことすら出来ないのだ。

私から電話が無いことに腹を立てた母は、怒り心頭で夫に電話をかけてきた。私は夫と相談して、母に現状を話すことにした。

母が住む実家に行き、私は言った。

「お母さん、私、うつ病になったの。

電話が、っていうか、仕事も、うちのことも何も出来ないの」

そう告げられた母の顔色は、目まぐるしく変わった。

ー困惑、動揺、狼狽、憤怒。

そして、母は早口で、喧嘩腰に言った。

「わ、私は、そんなふうに生んだ覚えはない! うつ病なんて…、うちの家系にそんな遺伝は無いよ!」

私は心底ガッカリした。うつ病の知識も間違っているし、理解よりも、心配よりも、あなたが病気になったのは私のせいじゃない!と自己弁護されているようで、愕然としたのだ。でもうつ病で生命力がダウンしているので、言い返す気力がない。私は呟やくように言った。

「遺伝じゃないよ、お母さん。うつ病は脳の病気なんだって」

「な、そんな、そんな脳の病気になるような子に生んだ覚えはないよ!」

かぶせるように母は言った。母は明らかに怒っていた。病気になったことを親に打ち明けたらキレられる、というのは、精神疾患特有の現象だと思う。他の病気なら、打ち明けた場合、聞いた人のリアクションは、だいたいが心配か労わりだ。

母はどうにも、私がうつ病だと受け入れ難い様子だった。

自分の子が、精神を病んでしまったと受け入れることは、母からしてみると製造者責任を感じる、ひどく不快な出来事だったのだろう。

…と、今なら分析できるが、当時はそんなことには考えが至らず、認知機能の落ちた頭で、私は必死になって説明を試みた。夫も口添えしてくれた。

しかし母は折れない。

「絶対、まこがそんな病気になるわけない」

「でも、なっちゃったんだって。お母さんのせいでも、遺伝でもないってば…」

「違う! そんなわけないじゃない!」

母はヒステリックに言う。もはや受け入れる、受け入れないのレベルじゃない拒絶反応。

どれだけ説明しても納得しない母を置いて、私は実家を後にした。

病気を理解しておいて欲しい肉親が、受け入れ拒否の体制を崩さない。それはひどく悲しく、切ないことだった。

その後も母は、私のうつ病など無かったことにして、様々な用事を言いつけてきた。親戚の集まり、町内の行事の出席、その他諸々。

「お母さん、それは無理…、私、今、病気なんだって…、外に出られないんだって…」

「そんなこと言ったって、まこがやるしかないでしょう!」

「無理だってば…」

「もういい! 自分の嫌なことは絶対にやりたくないんだね!」

「やりたくないんじゃなくて、出来ないん」

ツーツーツーツー。

電話は一方的に切られていた。

その後、私は偶然、弟が「私が仮病を理由に何もしなくなった、精神病だと言って歩かれるのは迷惑だ」と母に言い、母が同意しているところを目撃してしまう。

私は衝撃を受けた。

この苦しみが仮病?

私が精神の病になったのが、そんなに受け入れられない?

身内から精神障害者が出ることがそんなに迷惑?

こんなに苦しいのに、私の心配はしてくれないの?

不出来な子どもはいらないの?

私がいなくなればいいの?

死ねばいいの?

うつ病の苦しみだけでなく、理解されない苦しみに押しつぶされる私に、相変わらず、うつ病のことも、何もなかったように、定期的に電話をかけてくるよう要求する母。

その日も電話で、うつ病をスルーして、私に用事を言いつけようとする母と口論になった。と言っても私は頭も回らないし、怒る気力もなく、一方的に言われるがままなので、ますます母はエスカレートしていく。そして母が言った。

「どうしてまこは、私の言うこと聞かないの! なんでそんなふうなの! そんなふうに育てた覚えはないよ!」

母は母なりに、私が精神の病でないことを信じ込みたくて必死だったのだと思う。でもまた私も、自分を理解して欲しくて必死だったのだ。

ーそんなふうに育てた覚えはない。

この時の母の言葉に、私は怒りが急激に込み上げ、限界点を遙かに超えた。

覚えがあるか無いかなど、関係ない。この苦しみは現実のものとして、私を覆い尽くしている。私は目の前が真っ赤に見えるくらい怒りながら、淡々と母に告げた。

「私はね、お母さんの作品じゃない。

それに今、私は壊れてるの。何も出来ないの。これは、わざとじゃないの。

これ以上、私の話が分からないなら、今から死んでやる。

お母さんが、どれだけ私を追い詰めたのか、この先ずっと、思い知って生きて行くといいよ」

私は呪いの言葉を吐き、いつも一方的に切られる電話を、こちらからブツ切りし、iPhoneの電源も切った。

悲しくてやりきれなくて、私は家を飛び出した。夕焼けが眩しくて、街は赤く染まっていた。

どこかで死のう、と思った。どうせ私は母の失敗作なんだ。

私は闇雲に歩いた。自暴自棄な衝動から歩いて歩いて、いったいどこを歩いているのか分からなくなっても歩いて、わざと知らない角を曲がり、方向さえ分からなくなり、時間も分からなくなり、それでもずんずん歩き続けた。

歩きながら、幼かった時の母や弟のことを思い出していた。あったかいリビング、クリスマスツリーの下にはプレゼントが置かれ、テーブルの上にはチキンや巻き寿司や、賑やかなご馳走が並ぶ。母のお手製のクリスマスケーキに、指を突っ込んで叱られる弟。3人で笑った、楽しかった夜。3人で寄り添うように生きていた、私の大事な家族。

もう、いないんだ、と思った。あの時の母と弟はもういないんだ。

私が、こんな、病気になったから。

そう思ったら、涙が頬を伝った。

泣きながらどれだけ歩いただろうか、私は歩き疲れて、住宅街の歩道のブロックに腰を下ろした。気がついたらもう辺りは真っ暗になっていて、見上げた夜空には、まばらな星の中に三日月が光っていた。

カッカとして歩き回ったけど、そのおかげで私はずいぶん落ち着いてきていた。

私の前の家族はもう無いんだ。でも、私には今の家族があるじゃない。そこでは充分過ぎるほど理解されている。無くなった家族のために、死ななくてもいいじゃない。

そう思ったら、私は夫と息子に会いたくなった。急に自分がどこにいるのかも分からないことが怖くなった。死ぬつもりで飛び出してきたので、とっさに掴んでいたiPhoneと、ポケットの中にハンカチしか持ってない。財布も無い。私は慌ててiPhoneの電源を入れた。

とたんに着信があり、私は驚いてiPhoneを取り落としそうになった。夫だった。

「まこ、今どこにいるの⁉︎」

「分からない…」

「近くの電信柱とかに何か書いてない?」

「えーと…」

「そこから動かないで。迎えに行く」

怒りが波のように引いていき、代わりにうつの不安が押し寄せ、道端で心細く待っていると、ずいぶん経ってから夫が車でやって来た。私は、なんと7駅分も歩いて来ていたのだった。

激情にまかせて、うっかり家出をしてしまった。車に乗って夫に謝ると、夫が言った。

「まこが無事で良かった。お義母さんから連絡があって、探してたんだよ。電話も繋がらないし。お義母さん、すごく心配してたよ、元気がなかったよ」

「そう…」

私は家に戻った。夫は私を保護したことを母に連絡していた。電話、替わる?と聞かれたけど、私は首を横に振った。

それからしばらく、母からの連絡は無かった。私もしなかった。実家にも近づかなかった。理解されない苦しみは、時折私を襲い、そのたびに、ひどく胸が痛んだけれど、もう、無理に理解を求めるのは止めた。

母と音信不通になって半年くらい経った頃、母から電話があった。

「まこ、体調はどう?」

相変わらず、何事も無かったようにしてかかってきた母の第一声は、私の調子を尋ねるものだった。私は母の変化に気が付きつつも、同じように何事もなかったように、

「良かったり、悪かったりだよ」

と答えた。

母は季節の話題や、実家の近所の人の動向など、当たり障りのない話をして、電話を切った。

その日から、母から毎日電話がかかってくるようになり、私は母と電話で短いやりとりをするようになった。母は以前と違い、私の病気を気づかい、理解しようと努めてくれるようだ。

私も、うつ病を理解してもらおうとするばかりではなくて、自分からも母の気持ちを汲もうと努めるようにした。

しばらくして久しぶりに実家に帰ると、本棚には、うつ病関連の本が2冊入っていた。私は聞いた。

「この本、お母さんが買ったの?」

「あぁ、うん。ちょっとでも病気のこと、分かるかなと思って」

母は本を読んだり、インターネットで調べたりして、うつ病を理解しようとしてくれるようになった。ここまでで、発病から2年近くの月日が経っていた。

今では、病気について、だいたい7割くらいは理解してもらえているかな、と感じている。

そして今の母は、電話で私と話すことが、私のリハビリになると思っているようで、毎日電話をかけてきてくれる。私は私で、母と話すことが親孝行になると思っている。お互いが相手のために、と思ってやりとりしているので、これはこれでいいのだと思う。

今年の2月頃、私は1週間ほど里帰りをした。母と2人で毎日過ごし、お茶を飲みに行ったり、ウィンドウショッピングをしたりして過ごした。1週間の滞在はあっという間に過ぎ、私は家に帰ることになった。

「また、おいでよ」

バスに乗り込む私に、母はそう声をかけ、手を振った。

バスの座席に付き、窓から雑踏の中にいる母に手を振り返した。人混みの中で、マフラーを巻いて佇んだ母は、なんだかひどく小さく見えて、なぜだか哀しくなり、涙が出そうになった。

「あ、り、が、と、 お、母、さ、ん」

私はバスの窓越しの母に見えるよう、口をパクパクして伝えた。母はうんうん、と頷いていた。

うつ病にならなかったら、衝突することもなかった代わりに、母とお互いに思いやる関係になることも、母とこういった時間を持つことも無かったと思う。

だからと言って、うつ病になって良かったとは思わないけど、時間には余裕もあることだし、これからは出来るだけ親孝行しようと思う。