私がうつ病になったキッカケの日。その日はごく普通に、何気なく始まった。それと決意表明。

今日という日に、私がうつ病を発症する引き金になった日の話をしようと思う。

一般的にうつ病の発症は、様々な要素の絡み合いで起きると言われている。

私の場合で言うなら、自分で始めた仕事が楽しすぎて、ワーカホリック気味のところはあったかもしれない。サービス精神が旺盛過ぎる性格もあったのかもしれない。もしかしたら他にもいろんな要素があって、私はうつ病リーチになっていたのかもしれない。

でも、そのくらいのことは別に特別なことではなく、私はその日までうつ病とは無関係に、何の支障もなく、毎日を楽しく、気楽に陽気に生きていた。

人生は素晴らしく、私は幸せで、夢を追いかけ続けていた。

しかし、その日は何の前触れもなくやって来たのだ。

その日の朝、私は、お台場のホテルのベッドの中にいた。晴れた日で、窓の向こうに見える海が眩しくキラキラ光っていた。

フリーの広告プランナーをしていた私は、前々日から出張で、名古屋から東京に来ていたのだ。前日に訪れた企業での企画会議に参加した後、友人の女性とお台場にあるレストランに食事に行き、そのまま私はお台場のホテルに宿泊したのだった。

その日は珍しく仕事の予定が入っていなかった。ホテルのチェックアウトは12時。

――それまでホテルでゆっくり過ごすのもいいけど、天気も悪くないから銀座あたりに行って、ウィンドウショッピングをするのもいいかも。

私はそう考え、早めにホテルを出ることにした。 お台場から銀座へ移動し、ぶらぶらとウィンドウショッピングを楽しんだ後、カフェでコーヒーを飲んだ。

腕時計を見ると2時半を過ぎている。コーヒーを飲んだらそろそろ家に帰ろう、東京から名古屋までなら2時間ほどだし、夕飯は夫と食べることが出来るかな、などと考えていた。

――その時、
それは、いきなり来た。

なんの前触れもなく突然起こる物凄い揺れ。これまでに体験したことの無い、視界がぶれるほどのガクガクとする激しい振動。

私は思わず小さく悲鳴をあげてしまう。地震だ。カタン、と壁のフレームが落ちる。店内の人は皆伏せている。私も慌てて伏せる。続けてまた強い揺れがやってくる。

カフェのカウンターテーブルの下で、それはすごく長い時間続いたように感じた。

「建物の外に出たほうがいい」と誰かが言っている。揺れが収まったようなので、店の外に出てみる。

大通りに出ると、いつもはたくさん走っている車が見当たらず、道の上に人がわらわらと出てくる。

街灯が、柔らかいプラスチックで出来ているかのように、首をぶんぶんふって揺れている。

カルチェの路面店の中では、大きなシャンデリアがぐらんぐらんと揺れて、それを止めようと店員さんが床用のモップで必死に押さえている。

――カルチェにモップ?  ありえない。あまりにも非日常だ。今、この瞬間に、なにか非日常なことが起きている。すごく嫌な感覚。

往来はたくさんの人でざわざわしている。通りにあった宝クジ売り場のおばちゃんと目が合うと、私に声をかけてきた。

「震度5だって、東京。震源地は別のとこみたいだけど」

タクシーはつかまらない。電車も止まっているらしい。私は他の人に習って東京駅を目指して歩くことにした。いろんな人がいろんな噂をしながら歩いている。

「すごい津波が来たらしい」

「空港が沈んだって」

「死傷者もけっこう出たみたい」

切れ切れに入ってくるのは、現実とは思えない情報ばかりだ。何度も試すが、携帯電話は全然通じない。

ようやく東京駅に着く。新幹線はやっぱり動いていない。都内の電車も動いていないので、東京駅の近くにいるのがベストだと判断し、駅近くのカフェを見つけて入った。

混雑していたが、なんとか座れた。携帯電話が使えないので、ノートパソコンを開く。SNSを見ると、家族や友人から安否確認の連絡が来ていた。私は「大丈夫」と返信する。

ネットを見ると、次から次へと恐ろしいニュースが更新され、情報が錯綜している。私はパソコンを閉じ、東京駅に戻った。

駅の通路や階段には、行き場を失ったたくさんの人が座っている。そして皆が固唾を飲んで液晶ビジョンを食い入るように見つめている。私も階段に座り、ニュースを見る。

今朝までいたお台場が燃えている。

空港が沈んでいく。

町が飲み込まれていく。

土砂の波、燃え上がる炎。炎の渦。

全身から力が抜けるようだっだ。

人の力では到底太刀打ちの出来ない、圧倒的な災いが、町を、人の営みを、壊滅させていく。

早く名古屋の家に帰りたい、と思った。だが相変わらず新幹線は動かず、私は東京駅近くのビルで夜を過ごすことになった。帰宅困難者になったのだ。

ビルのテナントが入っていないフロアが、臨時の待避所となり、私と同じように帰れない人でごった返していた。ビルのオーナーの善意で、毛布と缶入りのカンパンが配られる。いつまた地震が来るか分からないので、誰かがラジオを付けていた。時折、警告音が鳴り、その度に皆ざわめいた。

私はハイヒールを脱いでスーツのまま、ブルーシートの上に横になり、毛布をかぶる。コンクリートの冷たさがブルーシート越しに伝わってくる。

災害状況を知らせるラジオに混じって、となりのグループの若い女の子達のすすり泣く声がする。聞こえてくる会話から察すると、彼女達は今日、東北に帰郷するつもりだったようだ。家族に連絡がつかないと泣きながら、繋がらない電話を何度もかけている。全然眠れない夜だった。

――そうして、6年前の今日、2011年3月11日は終わった。

翌日早朝、私は復旧した新幹線に乗った。名古屋駅に着くと不安そうな顔をした夫が、新幹線のホームに立っていた。心配して、迎えに来てくれていたのだ。

私は夫の顔を見たとたん、ほっとして涙がほおを伝っていることに気づいた。あまりのことに感覚が麻痺して、泣く余裕すらなかったのだ。

その日は怖くてテレビを見ることが出来なかった。そして私は数日後、あの日の災害に名前が付いたことを知る。

「東日本大震災」
――歴史に残る、未曾有の大震災だ。

そして今もなお、傷痕の癒えない大震災。

そして、この日を境に私の歯車も、少しずつ狂い始めていった。

日を追うごとに続々と、震災の詳細が明らかになっていく。大勢の犠牲者、甚大な被害、福島原発の爆発、……映画よりもひどい現実。

私と仲良しだった企業の担当者さんも、瓦礫の下敷きになった。

私の仕事先は関東方面が多かったので、私のお客さん達は、大打撃を受けた。

私は広告プランナーとして、広告の企画に携わり、企業やお店のアシストをしていて、商売をしている人と、お客さんとをつなぐ架け橋のような役割をしていると自負していた。

広告の仕事は、企業側の想いを、お客さんに伝えるのがミッションだ。

私にとって、広告とは、押し付けたり売りつけたりするものではなく、相手を喜ばせるためものだ、という持論があった。

その想いは、ただの理想論ではなく、関わった企業やお店は、数字になって結果が現れていたので、私は私のやり方が間違っていないことを実感していた。

売りつけようとするのではなく、想いを伝えることで、それに結果が付いてくるのだ。

「人に優しく、楽しく、想いを届けにいこう」という、その信念に賛同してくれる企業やお店と仕事をしていたので、私の抱えている仕事内容は、どれもポジティブで、お客さんを想う、思いやりに満ちあふれたものだった。

ところが、3月11日以降、私の仕事は、すべてが悲しみに覆われたものに変わってしまったのだ。

「社屋半壊につき営業停止のお知らせ」

「液状化の被害による全館休業のご案内」

「追悼のため、予告していたキャンペーン中止のお詫び」

「自粛」「自粛」「自粛」

私はこれまでと違う、悲しみの色に染まった広告をプロデュースしなくてはいけなくなった。

大地を揺るがして海を動かすほどの激しい災いの前では、人の営みなんて、あまりにもあっけなく、はかなく、脆い。

悲しいお知らせの広告を作りながら、私は自分の非力さを痛感していた。

私のやって来たことは、この非常時では何の役にも立たない。「人に優しく、楽しく、想いを届けにいこう」なんて、何の足しにもならない。私がやってきたことは、何の意味もなかった。誰も救えない。

私は日に日に弱っていき、翌月の4月の半ばに重症のうつ病と宣告された。たった1ヶ月で、重症になってしまったのだ。

私は地震そのものが直接ストレスになったわけではないので、正確に言うと「震災うつ」ではないのだと思う。

私がうつ病になったのは、「生きる意味の喪失」「途方も無い無力感」からだった、と思っている。

私はあの日から6年間、人知れず孤独に、不条理で理不尽な病に苦しみ、絶望と向き合いながら生きてきた。そして今年になって、ようやく再生しかけた。

再生しかけたと言っても、病が完治したのではなく、やっと一息ついた、というところに来たのだ。治ってはいないので、いい日もあれば、ダメな日もある。

でも、うつ発病からジャスト6年目の今日、私はうつ病を抱えながら、気持ちも新たに決意した。

この先どうなるのかは、全然分からないけど、やっぱり「人に優しく、楽しく、想いを届けにいこう」というスローガンは、やっぱり私にとって変わらない、大切な方針だ。

自然の力の前では、人なんて、まったく無力かもしれないけど、ささやかなりに、人に優しく、楽しく、心を届けて生きていきたいと思っている。

そして、やっぱり私のソウルは広告稼業なので、「伝えること」を生業として生きていこうと思う。

今はクライアントがいないので、私が私のクライアントだ。自由にテーマを決めて広告するのだ。

そんな私が、今、一番どうにかしたい課題は「うつの誤解と偏見の撲滅」である。

これまで私だけが受けた差別や誤解は、苦笑いで聞き流すことが出来たので、あんまり気にならなかったが、私は去年の暮れにツイッターを始めて、同じ苦しみを持つ人達と仲良しになった。

その皆さんが同じような誤解を受けたり、差別されたりするのは、私にとって、とても嫌な事だ、ということに、最近気がついたのだ。

なので、私は、「うつ病の理解の周知」という、全国レベルで告知をしなければならない、かなり大がかりな野望に手をかけることにする。笑われるかもしれないけど、千里の道も一歩から。
私は本気でそう思っている。

もっとみんながスムーズに治療に望めるように、他者に理解されて、罪悪感を持つことなく休養に専念できるように。そして、残念ながら今後も増えるであろう、後続のうつ患者さんのために。

私は、これまで広告業界方面で培ってきたノウハウを全部つっこんで、誰にも頼まれてないけど、もう勝手に「うつの誤解と偏見の撲滅キャンペーン」を開催することに決めた。

まだまだ病弱で非力だが、最高のシナリオを練り、同じ想いを共にする皆さんとも力を合わせて、いつかきっと、世の中のうつ病への誤解をひっくり返してみせましょう、と思っている。

どれだけ時間がかかろうとも、きっと。

よーし、世間の皆さん、待ってなさいよ〜♪