横水さんとの会話から考えた。気を使う会話はエネルギーをジリジリ消耗する。

近所に、横水さんという友人がいる。

小柄で可愛い感じで、頭の回転が早く、とんちの利いた女性だ。SOPHIAというバンドの松岡充という人になんとなく似ているが、そう言うと本人は困惑するようなので言わないでおく。でも皆さんはそんな感じでイメージしてくれたらいいと思う。

そんな横水さんは、うつ病の私が病に倒れて寝込み、起き上がれるようになってから、毎日連絡をくれた。お茶に誘ってくれ、迎えにまで来てくれ、近所の喫茶店に連れて行ってくれたりした。

最初のうちは、うつ病のせいでボーッとしていたり、暗い話ばっかりだったはずだが、横水さんはふんふんと聞いてくれ、頭がフリーズしている私にも分かるように話をしてくれた。今では平日の毎日1時間くらい、芸能ニュースから人生観まで、いろんなジャンルについて、時にはゲラゲラ笑ったりしながら2人で普通におしゃべりをしている。

うつ病の回復には、通院服薬と時間が必要だ。それと、なんでも話せる気の合う人がそばにいてくれること。私の場合はこれが大きかったと思う。

そんなわけで、私は横水さんにとても感謝している。その気持ちを言葉に綴ると文学集全10巻くらいのボリュームになってしまうので、そんなことはやらないが、それくらい感謝している。

さて、横水さんと会話をしていて、最近気がついたことがある。

私は横水さんと話す時に、全然気を使ってないのである。気を使うなんて高度なことはできない状態の頃から会っているので、そのまま今に至る。たぶん横水さんも私に気を使ってないと思う。

会話で気を使う、というのはかなりエネルギーを消耗するものだ。気を使う会話にも2種類あって、それは、大きく気を使う会話と、細かい瞬間で気を使う会話だ。

大きく気を使う会話は、例えば、営業や接待、ママ友ランチみたいな、ハッキリ気を使ったことが分かる時のやつ。分かるので、自分を労わることができる。エネルギーも大きく消耗するけど、疲れたことを認識できるので、休むなり、ストレス発散するなり、自分でケアしやすい。

それに比べて、細かい瞬間で気を使う会話は、日常の中のささやかな一瞬の会話のことだ。

例えば、オススメの本を誰かに貸すとする。本を渡しながら「ひまなら読んでみてね」と言いかけて、「ひまなら、なんて言ったら、ひまな人間だと思ってんのかよ、とか思うかも」なんてことを人は一瞬のうちに考えて、「時間があるときに読んでね」と気を使い、言い変える。

例えば、ダイエットに成功して「痩せたんだー」と女友達に報告したいと思いつつ、「自慢と思われるかも、もしかしたら妬まれるかも」なんてことも人は一瞬のうちに考えて「最近ウォーキングにはまってさぁ」など、別方向から攻めたりと気を使い、言い変える。

そんな些細な、とるに足らない会話で気を使うこと。些細過ぎて忘れてしまって、無いことにしてしまいがちだが、無くはなってない。エネルギーを消費している。ほんのわずかでもそれは確実にストレスとして溜まっている。0.1は、0ではないのだ。それらはケアもされず放置されることで、少しずつだが着実に増えていくのだ。

円滑な社会生活を送るためには、会話に気を使うことは大人として大切なことだ。でも、エネルギーも使う。当たり前にこなした会話でも、ちょっと疲れたなら、その時に少しでもストレスを感じたら、それを意識して休養することが大事だと思う。ストレスゲージがいっぱいになる前に、自分を労わってあげたほうがいい。小さなストレスが大きい固まりになってしまう前に。

というようなことに気づけたのは、横水さんのおかげである。そして今日も私は横水さんと会うけど、気を使わない。そして横水さんもたぶん気を使わないだろう。