うつ病がもたらす「罪悪感」を克服したら、ただの内弁慶になった私。

うつ病になる前の私は、スーパー・ポジティブだった。生きることを謳歌し、人生を楽しんで暮らしていた。

悩みも時々あるけど、悩みというものは2種類しか無い。ひとつは原因があって自分で解決出来るもの、ふたつめは自分ではどうしようもないもの。

自分で解決出来るなら、そのように行動すればいいし、自分でどうしようもないなら、悩んでもムダ。放置、放置。

私はそう考えるタイプだったので、大して思い悩むこともせず、楽しく陽気に40年ほど生きてきた。

ところがうつ病になり、全部がひっくり返った。うつという解決不能で放置出来ない、3つめの悩みに遭遇したのだ。

私はネガティブな人になり、何から何までマイナス思考で物事を考えるようになった。

それに加えて、うつ病による脳の機能不全で、頭の認知機能が落ち、家事が一切出来なくなった。それはすべて家族に負担をかけることを意味する。

自分の病気の悩みはもちろん、家族への申し訳なさで罪悪感が募る。

そのうち何にもないところからも罪悪感のタネを引っぱって来るようになり、まさにネガティブ・モンスターとなった。

私は24時間中、寝ても覚めても夢の中でも、罪悪感に悩まされ続ける。

こんな病気になったのは、それまでの生き方がダメだったんじゃないかという罪悪感。

いつまでも休んでばかりいて社会人としてダメだという罪悪感。

家事も何もかも一切出来てないという主婦としての罪悪感。

私という人間が生きていることそのものに感じる罪悪感。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…」

私は途方も無い罪悪感を抱えてブツブツ謝り続ける。もはや誰に謝ってるんだか分からなくなるような、次々と押し寄せる罪悪感の波が、私を飲み込む。

そしてその罪悪感から、私は死を望むようになる。私なんていないほうがいいんだ、私なんて死んでしまえばいいのに…。

一時はその辺りまで行ったが、

「今のまこは、休むことが仕事だよ」
「安心して休んでていいんだよ」
「まこは何にも悪くないよ」

と、繰り返し、根気よく言い続けてくれる家族に支えられ、治療の甲斐もあり、次第に私は罪悪感を手放そうと思うようになってきた。

ーそうだ、急がば回れじゃないけど、今はジーッとして待つことが必要なんだ。

待つこと、それは忍耐を強いられる。

ーそうよ、私、こんなに忍耐強くがんばってんじゃん。罪悪感なんて感じる必要、無くない?

これは確かに私の仕事と言っていいくらいの、うつ病から脱出するという人生を賭けたビッグ・プロジェクトに取り組んでいるのだ。
横になりながらだけど。

罪悪感なんて持っていたら、治るものも治らない。罪悪感を持つのはなぜか? 私は自問自答を繰り返す。

たぶん、うつ病は心の病という固定観念が、私の中にも根強くあるせいだ。

私はそこに意識を集中した。自分は「ガチの病人なんだから」と言い聞かせることにしたのだ。

ー5年も社会復帰出来ずに療養してるんだもの、けっこうな重病だよね。

私は日々、「私はなんて可哀想で、がんばっている健気な病人なんだろう、なんてお気の毒な私」と思い続けた。

それを繰り返すうち、罪悪感は薄れて行き、だんだんちゃんとした休養が取れるようになってきた。自分が病人だときちんと認識すれば、休んでいるのも当たり前なので、罪悪感を感じなくなってきた。

主治医のK先生には、

「今はやりたいことだけやるようにして、でも無理はしないでね」

と言われたので、好きなことだけやるようにした。

好きなこと…、読書、映画鑑賞、漫画を読むこと、音楽を聞くこと。友人の横水さんとお茶すること。

支えてくれて、家事もやってくれる家族にも、ごめんなさい、じゃなくて、ありがとう、と言うようにした。

だから私は今もまだ、家事がろくに出来ない。感謝しながら家族のお世話になっている。だから私は専業主婦では無く、専業うつなのだ。

罪悪感をスルーできるようになってきた私は、ようやく自分の意思でコントロールしながら、うつの波にトライする、うつサーファーとなったのだ。

サーファーだから、波に乗り切れる時もあれば、波に飲まれることもある。それでも、波に飲まれても罪悪感は持たない。サーファーと同じで、そんな時もあるさ、なのだ。

うつ発病から5年半が過ぎた夏。私はようやく罪悪感を手放すことが出来た。

ーところが、お話はそこでは終わらない。

罪悪感を手放した私は、今度は家族に対して「だって私、病人なんだからねー!」といばるようになった。病人であることを盾にして、家族にアレコレいばっているのである。

「…あの頃から考えると、ずいぶん良くなってきたね、威勢がいいね」

家族は、いばる私を見て笑う。私も一緒になって笑う。

そうだ、こんな時期は人生の中の一部分に過ぎない。それなら、甘えていいよと言ってくれる相手がいるなら、素直に甘えておこう。

そんな感じで私は、家の中ではいばって暮らすようになった。家事も何にも出来ないが、ガチの病人である私は、人生において今、さまざまな役割が免除なのだ。

現在の私は、「お風呂まだお湯入ってないのー?」などとオーダーするだけの、偉そうな立場に勝手に立っている。

でも、まだまだ外出するのは得意じゃないし、出かける時は、家族の陰に隠れて行動している。外では意気地なしになるのだ。

…アレ、こういう状態のこと、なんて言ったっけ? なんかそういう言葉があったな。あー、アレだ、「内弁慶」ってヤツ!

そう思い付き、内弁慶という言葉を辞書で引いてみると、

うちべんけい【内弁慶】

家の中でばかり強がって外では意気地のないこと。そういう人。

と書いてある。

そういう人、だって。それなら私はそういう人だ。私は内弁慶なのだ。確定。

そんなわけで私は今、家の中でだけ、とてもいばっているのだ。ついでに私の愛犬の小さい犬もいばっている。揃っていばっているのだ。家族は、私達2人(うち1匹)にいばり散らかされている。

そのことについて、どう思っているのかと家族にインタビューしてみたら、

「元々そういう人(と犬)だと思ってるから、別に何も思わないよ。

家事も適当だけど、なんとかやれてるから。

調子がいい日は楽しく暮らせてるし、これでいいんじゃない?」

という答えが返ってきた。

ありがたい。ではお言葉に甘えて、今後も内弁慶スタイルで行く。小さい犬も内弁慶スタイル。それでもなんとか我が家は回っていくらしいので、感謝の気持ちだけは、いつも忘れずにいよう。

「ありがとう、って言ってあげるね!」

「どういたしまして。でも、言ってあげるは、付けなくていいと思うよ」

今日も我が家は平常運転である。