近頃の私は、波はあるものの、だいたい中の下くらいの気分をギリギリでキープしている。が、いつうつ状態にガクンと落ちるか分からない。
明日の気分がいいかどうかは朝、目覚めてみないと分からない。毎日が一か八か、という気の抜けないギャンブラー人生を送っている。
それでも近頃、ごくわずかではあるものの、少しヤル気のようなものが出てくるようになってきた。
健康な人から見れば、吹けば飛ぶような超微量のヤル気だ。それでも私にとってみれば、この小さなヤル気の火は、5年以上ずっと消えたままで、去年の暮れあたりから、アレ? やっと火種がくすぶりかけたかな? という感じの、5年越しでやってきた貴重な火種なのだ。
私はその小さなヤル気の火種を、消えないようにハラハラしながら、そーっと大切に守りながら暮らしている。
さて、そんなわずかなヤル気を使って、先日の私が何をしていたかと言うと、マイ・フェイバリット詩集作りである。
好きな曲の歌詞をネットで検索し、コピーしてiPhoneのメモアプリに入れて並べる。メモアプリの中がマイ詩集になる、という楽しい単純作業を寝転んでせっせとやっていた。
このマイ・フェイバリット詩集作りは、くだらないようで、精神的になかなか侮れないのである。曲を聞くのではなく、集めるところがポイントだ。
自分の好きな曲なんだっけ? と思い出そうとするので、頭が好きな曲を考えようとして、その瞬間イヤなことを忘れることが出来る。
お気に入りの曲を思いついたら、頭の中にその曲が流れるので、これまたイヤなことがかき消される。歌詞を検索している時も、その曲のことを考えているので、イヤなことを思い出さない。
なので、曲を探して集めている間は、イヤな気持ちにならないのだ。
「イヤなことを忘れよう」とするよりも、「好きな曲を考えよう」とすることで、結果的にイヤなことが思考の外に追い出されるので、イヤなことと時間がある時にオススメの遊びだ。
さて、そんな感じで曲の歌詞サーチをしていたところ、洋楽の曲の和訳が、掲載されているサイトによって違うことに気づいた。見比べると、和訳された歌詞が翻訳者によってイメージが違うのだ。文章のニュアンスが違う。
例えば、ピコ太郎さんで有名な
I have a apple.
これが、
ー私はリンゴを持っています。
ー私はリンゴを持ってるのよ。
ーあたしー、リンゴ持ってるのー。
ー僕はリンゴを持っている。
ー俺はリンゴを持ってるぜ。
と、いろんなパターンで訳してあるような感じ。
全然、雰囲気違うのに、みーんなI have a appleである。
とすると、海外の小説は、翻訳家さんによってかなり雰囲気が変わってくるんだな、と今更ながら思い至った。
私の好きな小説の原作者は、どんなニュアンスで文章を書いたんだろうか。私が読んだ本は、翻訳者の文章センスが反映されたものだから、原作とは微妙に雰囲気が変わっているだろう。
私はここに至り、ハンカチをキーッと噛むほど痛感した。
ー英語出来たら、読めるのに。
私は英語がまるで出来ない。堂々と人のせいにするが、中学1年の時の、初めての英語の先生がズバ抜けてプレゼンテーション能力が低く、全然授業が面白くなかったせいだ。
英語の先生は、催眠術にかけるような抑揚のない語り口で授業を進め、私はまんまと眠ってしまう。2年生になったら先生変わるかも、と期待したが、卒業するまで同じ先生だった。完封負け。催眠術かかりっぱなし。
そんなわけで、私は中1の6月で英語を手放したのだが、それ以降あんまり困ることなく今まで来てしまった。
病前の私は広告方面の仕事をしていたので、「クリアランス・セール」とか「リニューアル・オープン」とか「ビッグ・バザール」とか、そういうのだけは分かるし書ける。でもそこまで。
それ以上は英語に用事がなかったのだが、翻訳は原作と必ずしも同一ではない、と気づいたことで、私の小さなヤル気に小さな火がついた。
ー英語の本を読みたい。
ー英語で詩を書いてみたい。
ー英語の歌詞を翻訳してみたい。
うつ病で満足な生活が送れない私は、自宅療養中の身の上なので、現在のところ時間は膨大にある。
コレ今、私、英語始めるチャンス、来ちゃったんじゃない⁉︎ そう思った私はさっそく英語を勉強する本を買った。なるべく薄くて簡単そうで、分かりやすそうなやつ。
で、選んだのがコレ↓
よーし中1から、やり直しだぜ!
本の表紙を眺めて、感慨深く思う。
中学1年から32年間、英語をスルーし続けた私が、自らの意思で勉強しようと思ったのである。
なんかもう、それだけでかなり満足して、本をパラパラめくる私を見て家族が言う。
「たぶんね、きっと続かないよ。その本は無駄使いになるよ」
「なんでよ⁉︎ 私はやるよ。やり遂げちゃうよ。うつの私がヤル気を出したのに、続かないよ、は無いと思うな」
「だって元々の性格が飽き性じゃん」
「そんなこと言うなら、私はね、英語をばっちりマスターして、英語の詩を書いてね、なんなら、ほら、えーと、ボブ・ディラン! そう、ボブ・ディランみたいにノーベル賞とっちゃうかもね‼︎」
以上が、ヤル気の少ない私が、ノーベル賞を目指す発言に至るまでのまでの流れである。
志は高く、ハードルは低く。英語は、ま、追々やっていこうと思う。
See you!
(↑現時点ではこの辺が限界)