過去との付き合い方。過去に振り回されず、自分に都合のいいところだけ使えばいいよ。

♪現在、過去、未来〜、

あの人に会ったな〜ら〜

と、冒頭からいきなり、皆さんに「頭の中をメロディがグルグルする呪い」をかけてみた。

40代以上の人にしか効き目の無い呪いであるが、皆さんに呪いをかけてやろうとYouTubeを検索していたら、自分が呪いにかかってしまった。不覚である。

そんなわけで今日は「過去」について考えたこと、「過去というものがいかに不確かなものか」ということを長々と書く。

以前、数人の知人と話している時に、その中の1人、Aさんが話し始めた。「この前友達とランチに行った時、お店を決めるのに迷っちゃって、結局私が〇〇ってお店がいいんじゃない?って言って、それでその店に行ったんだけど」

話を聞いていた私は、アレ?と思った。

私もその場にいたから知ってるのだが、〇〇というお店に行ったらどうかと言い出したのはAさんではなくBさんだ。するとAさんもそのお店を知っていて、それじゃソコ行こう、となったのだ。

あまりにもどうでもいいことなので、訂正したりはしなかった。でも、なぜこんなどっちでもいいエピソードを覚えているかというと、

過去は以外と簡単に書き換わる

と、ふと気がついたからだ。

その後、Aさんの話は〇〇というお店の評価に移って行ったのだが、私はあんまり聞いてなかった。

AさんはBさんから聞いたことを忘れて、全然悪気なく話しているようだし、Bさんもその場にいたのだが、自分が言ったことを忘れているようで何の異論もなく、うんうんと聞いている。他の知人も、へーそうなんだー、とか言いながら聞いている。

本当の過去は「Bさんが言った」のだが、「Aさんが言った」ことになった。それを数人が認めていることで、過去が書き換わりつつある。私は真実を知っているが、この状態を興味深く思ったので黙っていた。すごくどっちでもいい内容だが、過去を変えることに加担したのだ。

言ってみれば、過去なんて「曖昧なもの」なのだ。

それ以外にも、そんなことはちょくちょくある。それは相手の記憶違いかもしれないし、私の記憶違いかもしれない。

そこで、私は実験してみることにした。私が適当な過去を作ってみよう。そこで家族に適当なことを言ってみる。

「前にさ、私が高校生の時、体操服を忘れてすごく恥ずかしい思いをしたって、話したことがあったじゃない?」

「あぁ、前に聞いたような気がする、そんなこと」

すんなり実験成功である。私は高校生の時に体操服を忘れて恥ずかしい思いなんてしていないし、そもそもそんな話すらしていない。

なのに、家族は「ような気がする」と言った。適当に相槌を打ったのかもしれないが、その時点で私は「高校生の時に体操服を忘れて恥ずかしい思いをしたという過去を持つ女」になったのである。ちなみに今も訂正していない。

言ってみれば、過去なんて「適当なもの」なのだ。

聖徳太子の顔だって、お札にまでなったのに、アレは本当は他人の肖像画だと言うし、西郷隆盛の銅像は、奥さんが出来上がった銅像を見て「こんな人じゃない」と言ったというし、坂本龍馬は、司馬遼太郎の小説が良かったから有名になっただけで、実はあんまり活躍してなかったんじゃないか、という一説もある。

歴史に名を残す偉人ですら、曖昧で適当な過去しか残っていないのだ。私達は提示された適当な過去を、そういうものなのか、と思うだけである。

言ってみれば、過去なんて「当てにならないもの」なのだ。

ヨレヨレのおじさんが呑んだくれて、「俺は昔、一等地にビルをいくつも持っててよぉ、億ションに住んでたんだ、クルマなんか外車を何台も持っててよぉ、オネェちゃんなんか、キャー社長さん、なんつって、そりゃあよりどりみどりでよぉ」と言っていたとしたら、本当にそういう過去があったのか、違うのか、話を盛っているのか知るすべもない。おじさんはバリバリの実業家だったのかもしれないし、嘘かもしれない。

言ってみれば、過去なんて「そういうお話」なだけである。

過去なんて、の話のラストに「世界五分前仮説」も並べておく。

これは「世界は実は突然、5分前に始まったのかもしれない」という仮説である。なにやら厨二病っぽい雰囲気であるが、バートランド・ラッセルさんという哲学者が提唱した、哲学の思考実験である。

そんなことありませんー、昨日や先月や10年前の記憶だってありますー、と言う人に、ラッセルさんは答える。

「世界が5分前に、そっくりそのままの形で、本当は存在しないすべての過去を、世界の人々が“覚えていた”状態で突然出現した、という仮説に論理的不可能性はまったくない」

つまりラッセルさんが言うには、宇宙も、地球も、日本も、この日常も、今の私も、取り巻く状況も、昨日の出来事も、過去の記憶も、全部、突然さっき5分前に出来上がったのかもよ、そしてそれを論理的には否定出来ないよ、という話である。

(ラッセルさんの思考実験は、この仮説を元に本題へと展開されていくのだが、話がそれるので詳しくは→Wikipedia

ノーベル賞を貰うくらいの哲学者が、この仮説に基づくと、過去が存在することを示すのは不可能、と言っているのだ。

まとめると、過去とは「曖昧」で「適当」で「当てにならないもの」で「そういうお話」で「存在を証明出来ないもの」である。

そのくらい不確かで漠然としたものなのである。

確かなのは「今」この瞬間だけ。

そうであるなら、過去に振り回される必要は無いんじゃないかな、と時々振り回される私は考える。

素晴らしかった過去を振り返り、今の自分を卑下するのはまったく無駄なことだ。

自分では前より下がったと感じるかもしれないが、周りの人からすると現在の自分は定位置にいる、と見えるだろう。周りの人が見ているのは、今の私、だから。

逆に、過去の自分を恥じるのも、適度な反省が終わったら、ほどほどでやめておいたほうがいい。いつまでも気を取られているのは損なことである。

過去に囚われて、卑屈になったり、くよくよしたりして、今という時間がないがしろになるのはもったいない。

優先したほうがいいのは過去よりも、「今」なのだ。

でも、過去に振り回されるのはダメだが、過去を懐かしむのはアリだ。映画「タイタニック」のおばあさんのように、過去の出来事が自分を支えてくれることもある。自分の生き様が誇り、という人もいる。誰にでも生きてきた中でとっておきの思い出、というのもある。

結論、過去なんて、今の自分に都合のいいところだけ適当に抽出して、大切にして生きていけばいい、と思う。