先日、コンビニでコーヒーゼリーを買ったところ、
付けてくれたスプーン、短すぎ。
たぶん、あのコンビニのお兄さんは、デザートにスプーンはマニュアルで決まっているので入れるけど、そのスプーンで、このゼリーが食べられるか、と「考える」ことはしなかったんだろう。
そんなわけで今日は「考える」がテーマである。考えるとは、思考する、とも言う。
「人は思考を止められない生き物である」
これは、私が小学生の時に好きだったTくんが、小学校の卒業文集に寄せた文章のタイトルだ。みんなが「修学旅行の思い出」とか「心に残った運動会」とか書く中で、「人は思考を〜」である。小6で「人という生き物」を語るのだ。インパクトあり過ぎで今でも覚えている。当時の私ときたらもう、キャーステキ!知的〜!(ウットリ~)である。
初恋は叶わなかったし、文章の中身は忘れてしまったが、小6のTくんの言った「人は思考を止められない」は、紛れも無い事実である。人は自分の意思では思考を止めることが出来ない。
誰もが常に何かを考えている。考えないようにしようと思った時点で、考えない、ということを考えている。ぼーっとしている時でも、とりとめもなく何かを考えてしまっているのだ。思考しているのだ。
ちなみにグーグルの検索ウィンドウで「しこうを」と入れてみたら、「思考を止める」が提案キーワードで出てきた。どうやら世間の皆さんは、思考を止める方法を知りたいようである。
でも、基本的に思考を止めることは無理である。自分の意思で思考を止めるとしたら、眠る、くらいしか思いつかないが、眠っている間の意識はないので、思考を止めるのとはちょっと違う。
意識はあるのに自分の意思で考えることをやめられるとしたら、もはやそれは悟りの境地に行ってしまった偉い存在、である。ブッダとか。そのレベルでないと使えない技である→自由意思による思考停止。
そのくらい考えるのを止めるというのは難しいことだが、私は自分の意思に反して、意識がありながら、ほとんど思考が止まってしまった時期がある。その原因は、うつ病である。
うつ病は、様々な理由により起こる「脳の機能障害」だという。簡単に言うと、理由はどうあれ、脳が故障してしまったんである。
故障した私は、パッタリ寝付いてしまった。トイレには這って行く。食事も与えられれば食べた。機械的に歯を磨き、機械的に入浴する。得体の知れない強烈な不安は感じるが、それは本能的、に近いものであり、何かを考えることはない。半年近くそんなふうに過ごした。
後から身内に聞いたところによると、その頃の私は瞳が動かなかったらしい。人の瞳は絶えず動いている。真っ直ぐ見つめていてもちょっと動く。それなのに私は瞳がほぼ動かず、人形みたいで怖かった、と言われた。目が死んでる、という状態だ。
「ほとんど思考ができない」ということは、「ほとんど何もできなくなる」ということである。
そんな私の脳は、再起動するまでに半年近くかかった。でもすぐ元通りになるわけではなく、考える力が2%から10%くらいになった感じ。ちょっと考えることが出来る。でも充分ではない。
そうすると出てくるのが、「考えられない」という恐怖である。「ちゃんと考えられないことが怖い」と考えてしまうのだ。
恐怖や不安は、脳の働きが10%程度の少ないメモリでも出てくる感情だった。もしかすると原始的な感情だからかもしれない。
脳の稼働率10%の私は、簡単な足し算も出来なくなった。3000円+600円がいくらになるのか分からない。病気になる前には当たり前に作れていた料理が作れない。いろんなことが分からなく、出来なくなった。そしてその都度困惑し、取り乱し、恐怖を覚えた。
「考えること」ができないのは、本当に怖い。
考えられない怖さを知るなら、フィクションだが、作家のダニエル・キイスが書いた「アルジャーノンに花束を」という名作がある。映画やドラマにもなっているので、ストーリーは知っている方も多いと思うけど、
本で、文字で読むのが一番怖く、悲しく、せつない。未読ならぜひオススメ。
誰もが自分の頭は、ずっと普通に使えて当たり前だと思っている。私もそう思っていた。でも違った。考えられない怖さを知った私は、考えることが出来ることのありがたみと、考えることができるからこそ感情が湧き、感情が持てることのありがたみを知った。無くしてみて初めて分かった。
考えることが出来てこそ、いろんな物事をこなせるし、優しい気持ち、愉快な気持ち、愛しく思う気持ちも感じることが出来るのだ。
今も療養中の私の脳は、今のところ稼働率68%くらいの体感だ。まだ分からなくて出来ないこともいろいろあるけど、スプーンが短いとか、卒業文集がどうのとか、あれこれ考えることが出来る。
考えることができること、それは本当に素晴らしい。