うつ病になると、とにかく身の回りのことが出来なくなる。
これは、うつ病になる人が元々だらしない性格というわけではなくて、うつ病の症状、「脳の機能低下」で思考力が落ち、複雑なことや、手順の多いことをスムーズに遂行する能力が下がるためだ。
以前、私が行っていた歯医者さんでも、歯科医の先生が、
「うつ病になって虫歯になる人も多いんですよ。歯磨きが億劫になるんですかね」
と言っていた。
そう、歯磨きひとつとっても、うつ病患者さんにとっては厄介だったりするのだ。
・歯磨き粉のチューブを手に取り、
・キャップを開け、
・歯ブラシに歯磨き粉を出し、
・歯ブラシを口に入れ、
・丁寧に磨く、
・口をすすぐ。
……という、健康なら寝ぼけたままでも無意識のうちに出来る、歯磨きという一連の行為が、思考力が低下した状態では、それすら困難なのだ。
歯磨きでさえ、そんなありさまだから、身なりを小綺麗に保つ、というのは至難の技。
私はうつ病になってから、かなり長い間、普段着もパジャマもジャージで過ごし、髪は伸び放題だった。
入浴するのがぎりぎり精一杯、しかも入れない日もある、といった状況では、トリートメントだの、ヘアエッセンスだの、ドライヤーをかけるだの、ヘアケアをするなんて思いもつかない。
したがって髪はバサバサのまま、伸び放題に伸び、貧相な平安時代の女性みたいなヘアスタイルになっていく。
さらに髪を切らずに何年も放置すると、髪の毛先は揃わずジャキジャキになってきて、大変みっともないスタイルになる。
(↓当時の自画像)
今から4年前、うつ病発症から3年が経った頃。身なりに気を使えない私も、さすがに自分のバサバサ髪が気になり、夫に相談した。
「髪を切りたいけど、美容院に行くのが怖いよ」
そう、怖いのだ。脳の機能が低下した私には、美容院がすごく難しい場所に思えるのだ。
キレイにしてもらう場所だけど、ある程度小綺麗にしていかないと行けない。
さらに、同じく脳の機能低下で人と会話するのが著しく難しくなっている。それなのに、どんなヘアスタイルにしてもらいたいか、という要望を伝えねばならない。
さらにさらに、美容師さんは、お客さんとコミュニケーションを取ろうと、アレコレとトークを振ってきてくれる。
――会話、出来ないんだよー。
しゃべるの苦痛なんだよー。
髪だけ切って欲しいんだよーーー。
私の話を聞いた夫は、こう提案した。
「スーパーとか、ショッピングモールに入ってる、10分カットみたいな床屋さんに行ってみたら?
オシャレサロンみたいに素敵にはしてくれないかもしれないけど、とりあえず切ってはもらえるよ」
――なるほど10分なら、トークの苦痛にも耐えられるかも。よし、行ってみよう。
私はそう決意し、夫に送ってもらって10分カットの床屋さんに行った。予約は当日のみ、担当者の指名は出来ず、手の空いてる美容師さんが対応してくれる。
私についてくれたのは、40代の女性の美容師さんで、当たり障りのない会話をポツポツするだけで、10分ちょっとでカットは済んだ。
とりあえずなんとか格好がつき、サッパリした私はひと安心し、次もここに来よう、と決めた。
それから半年後、私は再び、10分カットの床屋さんを訪れた。
前回髪を切ってくれた女性の美容師さんは既に接客中で、私は待合の席で待つように言われ、おとなしく待っていると、
「ハイハイハイハイ、お待たせぇー。じゃお席へどうぞー」
と、軽快な調子で、その日の私を受け持ってくれる美容師さんが現れた。
ハンチングキャップを被り、白いフレームのメガネ。ダメージジーンズ、ローリングストーンズのTシャツの上にチェックのシャツの男性。
が、しかし!
着ているものから醸し出す若さを差し引いたら、どう控えめに見ても70才!くらいに見える……。え、おじいさ、、、(以下略)
と、いったんひるみかけたが、
――いやいや、美容師さんは技術職。年齢は関係ないよね、と気を取り直し、
「な、長さはそんなに変えないで、か、軽くしてください」
とオーダーした。すると美容師さんは私の注文に被せ気味に、
「ハイハイハイハイ、軽くね。軽ーくね。ハイハイ了解ー」
と軽ーく言い、私の周りをくるくる回りながら大胆にジャキジャキ、ジャキジャキ、とハサミを入れた。
「ハイハイハイハイ、こんな感じに仕上がりました~、と。
どう〜〜?」
果たして、鏡に映っていたのは、
―photo by Wikipedia
――なんじゃこりゃぁぁぁぁ。
まるで美術の教科書に載ってた、岸田劉生の麗子像(↑写真)じゃん!
これじゃ、あんまりだ……。
しかし直して欲しいとオーダーする言葉が出てこない。どう直して欲しいと説明する能力が、その時の私には無かった。そもそも直すも何も、こんなにバツンと切られていたら、直しようもない。
私は迎えに来てくれた夫に泣きついた。
「えーん、オジイにやられた〜〜。もう二度と行かない!!! わ〜〜ん!!!」
それ以来私は、髪を頭の上で丸めるお団子スタイルになった。どれだけ髪が伸びようと、頭のお団子の直径が大きくなるだけだから、オジイに麗子像にされるよりは、断然マシ。
そして私は美容院に行かないまま、4年の月日が流れた。
もう一生、団子頭でいいや、と思う反面、ツイッターなどでフォロワーさんが素敵ヘアを掲載していると、ウットリ憧れてしまう。
そんな私を見かねた友達の横水さんが、先々月、私に言った。
「新しく行ってみたヘアサロン、すごく良かったよ。美容師さんがあんまり喋らない人で、あそこなら、まこちゃんも行けるかも」
「美容師さんが無口!? それはポイント高いね。よこちゃんの今の髪型、いい感じだしね」
「ありがとう。行けるといいね〜」
そう言って横水さんは、私にヘアサロンのカードをくれた。
しかし、オジイの洗礼に遭ってしまった私は、なかなか行く決意が出来ず、あっと言う間に2ヶ月が過ぎた。
でも先日、ツイッターでオシャレなフォロワーさんが、素敵な髪の写真をアップしているのを見て、ついに美容院に行くことを決意した。戦々恐々ながら、予約を入れたのだ。
私は勇んで横水さんに報告した。
「5月11日に予約したよー!」
「それは良かった! 楽しみだね〜」
横水さんは喜んでくれ、私は11日になるのをドキドキして待った。
当日になり、私は緊張しつつ、いそいそとヘアサロンへと出かけた。
初めて来たその美容院は、こじんまりとした、でも落ちついたインテリアの素敵なサロン。感じのいい優しそうな美容師さんが、座り心地のいい椅子に案内してくれた。
ふんわり、とカットケープがかけられる。高まる期待感。
――わぁ、こんな気持ち、久しぶり。
すると鏡越しに微笑みながら、美容師さんが言った。
「昨日、横水さんが来られて、明日、松桐谷さんの予約が入ってると思うけど、よろしくと言っていかれましたよ」
そう、横水さんは、わざわざ私の前日にカットに言って、私の事情を説明してくれていたのだ。
私はやや緊張がとけて、希望を伝えた。
「わ、私、何年も髪を切ってなくて、痛んだところを切って、軽い感じにしてほしいんです」
美容師さんはうなずき、カットする前に、うまく説明できない私に細かく質問をして要望を聞き出してくれ、以降はそっとしておいてくれた。
それもこれも、横水さんが事情を話しておいてくれたからだ。くー、心憎いやつめ。横水さん。
ゆっくりリラックスした静かな時間が流れ、私のカットは終わった。
美容師さんは、ミラーを広げて後ろも見えるようにしてくれながら、
「いかがですか?」
と言った。
鏡に映る私は(私という素材は置いといて)爽やかにカットされた髪が揺れ、それはそれは素敵な仕上がりになっていた。私は胸がいっぱいになった。
(※↓画像はイメージです。実際の人物とは異なる場合がございますのでご了承ください)
感激した私は、美容師さんに心からお礼を言った。
「あ、ありがとうございます。やっとで、やっとで切ってもらえたー。とても気に入りました」
すると美容師さんは、
「とても素敵ですよ~。節目になりましたね」
と笑顔で言うので、私は思わず目頭が熱くなった。そして思った。
――こういう時間って、すごく大事だ。
自分に手をかけてあげるのは、自分を大切にする、ということだ。ずーっと出来なかったことが出来るようになった今、私は私を大切にしよう。本当にいい美容師さんに出会えて良かったな。
横水さんもありがとう。
そして私は次回の予約を入れ、大変満足して帰宅したのだった。
うつ病からの苦節7年、
やっと美容院、行けたよー!
バンザーイ! おめでとう私!
……と、うまくいった美容院再挑戦であったが、やっぱり今日も私は頭の上でお団子を丸める。髪をまっすぐに整えるのが面倒だからだ。お団子は一回り小さくなり、小さい団子頭の私になった。夫が、
「それじゃ、前とあんまり変わらないじゃん」
と言うけど、私としてはこの団子の中身が、バサバサではなくて、素敵なカットなのだと分かっているから、それだけで幸せなのだ。
これで充分なのだ。