小さな子どもの頃、一番怖いのは死ぬことだった。
死はすべてを飲み込み、暗黒の世界に閉じ込められるような気がして、それ以上恐ろしいものなど存在しないと思っていた。
しかし20代になった私は、ある1冊の本に出会い、死よりも怖いことがあると知った。
それを教えてくれたのは、ダニエル・キイスの「アルジャーノンに花束を」という名作。
何度もドラマ化されているので、ご存知の方も多いと思うが、未読の方に向け、ウィキペディアの記事をかいつまんで、あらすじを。
知的障害を持つ青年チャーリイは、賢くなって、周りの友達と同じになりたいと願っていた。
他人を疑うことを知らず、周囲に笑顔をふりまき、誰にでも親切であろうとする、大きな体に小さな子供の心を持った優しい性格の青年だった。
ある日チャーリイは、大学教授から開発されたばかりの脳手術を勧められる。先に動物実験が行われたハツカネズミのアルジャーノンと出会い、彼は手術を受ける。
手術は成功し、チャーリイのIQは68から徐々に上昇し、数ヶ月でIQ185の知能を持つ天才となった。
チャーリイは大学で学生に混じって勉強することを許され、知識を得る喜び・難しい問題を考える楽しみを満たしていく。しかし周囲や物事を把握できるようになったことで、彼には苦悩も付きまとう。
そんなある日、自分より先に脳手術を受けたアルジャーノンに異変が起こる。
チャーリイはアルジャーノンの異変について調査を始め、ピークに達した知能は、やがて失われ元よりも下降してしまうという欠陥を突き止める。彼は失われ行く知能の中で、退行を引き止める手段を模索するが……
……という悲しい物語。でも超名作。
チャーリイの言葉で綴られるこの物語は、知能の高さで文体が変わり、それがまた、ひどく切ない。
今、読み返すとこの物語は、引き込まれる文章の中に、さまざまな問題提起が散りばめられ、考えさせられるエピソードにあふれている。
が、20代で初めて読んだ時は、「考えられなくなっていく怖さ」が、読後感の悲しみと共に、センセーショナルに心に残った。
特に中盤からラストにかけては、胸が苦しくなるほど。高い知能を持つことになった主人公チャーリイは、どんどん脳の機能が落ち、いろんなことが分からなくなっていく。
その様子は悲しく、切なく、胸に迫る。物事が考えられなくなるなんて、こんな恐ろしいことがあるだろうか、と当時の私は考えた。
でも、アルジャーノンはフィクションだ。既に大人になっていた私は、子どもの頃のようにいつまでも怯えたりせず、いつしかその恐怖も薄れていった。
――あれは、お話の世界。想像すると怖いけど、私にそんなことが起こることは絶対にないんだから。
私は順調に楽しい日々を生き、40才になった。
そして、重症のうつ病を発症した。
それまで私は知らなかった。うつ病が、脳の異常の病気であり、機能障害を引き起こすということを。
そして私は知った。やっぱり死ぬより恐ろしい地獄があることを。
知能の高さはどうあれ、ずっと同じなら恐怖は感じない。それが自分の中のスタンダードだからだ。落ちていくから怖いのだ。
自分が自分でありながら、壊れていく恐怖。それは一瞬にして意識が消える死とは違い、いつまで続くのかも分からない。
地獄とは、昔々絵本で見たような、火焔が上がり、鬼が罪人を追い回しているような、いかにもそれらしいものではなかった。
当たり前のささやかな幸せに満ちているこの世界が、そのまま地獄へと変貌していくのだ。
考えられない、ということ。それは経験してみると想像以上に恐ろしく悲しい。
私は発病から半年以上、寝たきりになった。考えることが出来なくなると、必要最低限の行為しか出来ない。
私は這ってトイレに行き、与えられる食事を無理やり飲み込み、またふとんに潜り込む。何も考えることが出来ず、理由の無い不安と恐怖だけ感じているという状態。
この頃の記憶がほとんど無いのは、何も考えることが出来なかったからだろう。家族によると、この頃、横たわっている私の瞳は、ほとんど動かなかったという。
目は口ほどに物を言う、のことわざ通り、目には心が現れる。でも、その時の私は、心が無かったのだと思う。感じることも考えることも無ければ、心は消えてしまうのだ。
そこから少し回復したが、私は、どもるようになってしまった。言葉が出ないのだ。
それはとても悲しく、情けないような気持ちになった。その気持ちを表す言葉も、その時は持っていなかった。
喋ることだけでなく、日常生活も困難だった。家事どころか、自分で靴下も履けないし、シャツのボタンも留められない。
文字も書けなくなった。病前は好きで描いていた絵も、まったく描けなくなった。
隙あらば本を読んでいたい本の虫だったのに、文字が読めなくなった。テレビも映画も嫌になった。分からないからである。分からない、というのは、不快感や恐怖を呼び起こす。
我が家のさまざまな生活雑貨や道具は、クローゼットや引き出しの中に収納されていたので、私には何がどこにあるのか分からなくなってしまった。
仕方がないので、我が家の閉じた扉の全部にふせんを貼り、中身を書き記した。
家族が私の状態を悲しみ、涙しても「ご、ごめん、な、なさい。な、泣か、ないで」としか言えない。
考えられないことは、本当に恐ろしい。
考えられないから、話せない。
考えられないから、身の回りのことが出来ない。
考えられないから、本もテレビもダメ。
考えられないから、人の気持ちも分からない。
考えられないから、大事な人に寄り添えない。
考えられないから、恐怖と不安しか感じない。
考えられないから、私は私でいられない。
すべては、考える力を失ったから。
しかし、発病から7年もの年月が経ったけど、今の私は2年くらい前から徐々に、考える力を取り戻しつつある。
考えられること、それは本当に尊く、ありがたいことだ。1回無くしかけたから、今はそのありがたみが、心に沁み入る。
いろんなことを考えられるのは、幸せなことだ。つまらないことでも、くだらないことでも、考えることが出来るのは、何よりもありがたい。
考えることが出来るから、笑えるのだ。
考えることが出来るから、幸せも感じられるのだ。
考えることが出来るから、自分らしく生きられるのだ。
身に沁みて「考える」の重要性に気づいた私は、この気持ちをずっと忘れないようにしよう、と考えた。
そこで、「考える」をシンボル化すると「?」であるな、と考え、「?」モチーフのアクセサリーを身に付ければ、折にふれ目に留まり、「考える喜び」を噛み締められる!と思いついた。
だがしかし、ネットサーフィンをして探してみても、これといった「?」マークの、めぼしいアイテムは見つからない。世の中には?マークのアイテムの需要は、そんなに無いらしい。
私は根気よく探す。自分の目に留まる用だから、ネックレスは見にくい、ブレスレットか指輪……、
うーん、気にいるのが無い。
私は別のアイデアを思い付き、夫に相談した。
「ねぇねぇ、手首にタトゥー入れてもいい? 1センチくらいのヤツ」
「ハァ? タトゥーって刺青?」
「そう、これこれこういうわけで、?マークを入れたいの」
「……やめたほうがいいよ」
「なんでよ」
「まこ、飽き性だし、欲張りだから。気に入ったものをどんどん彫ってたら、すぐ腕が足りなくなるよ。彫るんなら、違うものに彫ってもらってアクセサリーにしたら?」
「……そうか、なるほどね!」
私はまたもやネットの海を泳ぎまわり、革のブレスレットの小さなメダルに、刻印してくれるお店を見つけた。
お店の人は親切で対応が良く、私が一番気に入っているカタチの「?」マークを刻印して、革のブレスレットに付けて、仕上げてくれた。
そのブレスレットがコチラ↓ ジャジャン!
特製「?」ブレスレット、大変気に入っている。今はこれを毎日腕につけ、事あるごとに、考えられる喜びを享受している。幸せだなぁ、と1日に何回も思う。
……なんてことを考えて、こうして文章が書けるのも、ありがたい。言葉に尽くせない。
ただただ、ありがたい。